ヤヨイテッキレコード

スピリチュアルかぶれの哲学的エッセイ

【0】執着と依存

 大好きな人と別れた。戻りたい。また一緒に過ごしたい。そんな思いを抱えながら、自分をみつめる。戻るには私が変わらないと、成長しないといけない。何を変えればいいのか、何をすればいいのか、何がいけないのか、そんなことばかり考える。

 たどり着いた先は、執着と依存だった。彼からもらっていたと感じる愛に執着し、彼の存在に依存していた。彼がいない私には価値がないし、生きる意味がない。やや大げさにも感じるが、本当に生きる意味を見失いそうだった。

 彼が現われる前は、仕事でお世話になっている人に依存していた。その人の役に立つことが私の存在意義につながっていた。その前は仕事に依存していた。仕事をもらえているうちは生きていていい。その前は友人に、その前は片思い相手に、その前は……。常に誰かや何かに依存して生きてきたことに初めて気づいた。

 今、彼への執着を手放してしまうと完全に依存先がなくなってしまう。何を支えに生きればいいのかわからなくなる。一方で、握っていても仕方ないことはわかっていたから手放すと決めた。すると今度は、私が私に依存しはじめた。「何かを成し遂げる私」「何かに向かってがんばる私」への依存。何かしないと、何か探さないと、という焦りが出てきてはじめて気がついた。

 人は不思議なもので、気づいた時点で受け入れがはじまる。焦らなくなった。その代わり、本当に何もないことを認めるしかなかった。頼るもの、すがるもの、生きる意味、私の価値を見出すもの……私が生きていていい理由が何もない。誰にも、何にも、役に立っていない私。ただの私。それでも毎日生活して生きている。

 何もない自分を受け入れるのは本当にきつかった。だって何もないのだから。やりたいこともない。何もしたくない。八方塞がり。絶望。

 でも視点を変えてみると四方八方が塞がれているのではなく、塞ぐものも何もないということだった。どこにでも行けるし、なんでもできる。私の舵さえあれば。私が行き先を決めれば。私が選択すればいいだけのことだった。ただそれだけのこと。

 ただ、この「ただそれだけ」がなかなかできない。何も見えない暗闇の中、行く先を照らすものもない。私を信じて進むしかない。やるしかない。